ロジカ株式会社 10周年

ロジカ株式会社10周年

おかげ様でロジカ株式会社は10年という時間を超えることができました。
全ての関係者様に対し厚く御礼申し上げます。

昨今の新型コロナ感染症の影響で10周年記念イベントもなくなり
短いながら弊社の考え方や歴史を内外にお伝えすることができなくなったため
元々の考え方から創業初期までの流れをこのブログに書き込んでいきます。

「考え方」
私は中卒の落ちこぼれであり
他者は学力もあり能力の高い存在である。
劣等感でもなく自己否定でもなく、私の持ち合わせていない能力の持ち主が他者である。
という認識から始まっています。

「会社員時代
十数年間、会社員として経験していく中で
他者(当時は大半が先輩方)が会社に対する不満や反発をすることが
カッコいいという風潮がありました。
私は最大であり唯一の顧客である会社に不満があるわけもなく、仕事を任せられた
喜びや感謝しかありません。
他者が会社に不満や反発をし、分の良い仕事を与えられると他者は喜ぶ。
口と頭のない私は不満を言う余地もなく、分の悪い仕事を与えられ喜ぶ。
変な関係ですね。

徹底的に分の悪いといわれる仕事を受けていると
他者が分の悪いと考えている仕事も実は、お客さんの中には感謝をしてくれる方もいて
私はただの下請け業者にもかかわらず、手伝いに入ってくれたりお茶をだしてくれたりと
働くことに対する喜びを教えてもらった時期でもありました。

ある程度、仕事に対する誇りや自信が付いてきた中で
1か月という期間で見ると必ずミスをしていることが分かってきました。
小さな事故や小さな時間のロス。
何か月挑戦してもノーミスは達成できません。
たった30日間をノーミスで仕事をすることができない自分に対する失望感と
その責任は会社もしくは社会の誰かが取っているという無力感。

ノーミスが無理ならばせめて自分の仕事は自分で責任を取りたい。

初めて会社に不満をぶつけました。
「私が受けた仕事は全責任をとらせてほしい。謝罪も行く、全額弁済させてほしい。」

当時はまだバブルの名残もあり会社にも余裕があったと思います。
上司はニコニコしながら

「誰でもミスはするし、その責任は会社にもある。あとは会社が処理するから大丈夫。」
と言われましたが

私の中では、これがどうしても許されなかった。

仕事を受けた人間が最後まで責任を取ることができず
会社や社会の誰かが取っているということがどうしても納得できない。

同じ案件が数回繰り返されて
私は会社員失格と実感し会社を退職することとしました。

「個人事業時代」
今まで、分の悪いといわれる仕事に対して、誇りを持って働いてきましたが
個人事業となると地位は更に格下。
社会の最下層、社会の最末端で働くことに
更なる誇りと喜びを持つことを誓い個人事業は始まりました。

学歴のない私でも、他者の3倍の量と時間を使えば
世間並の収入は得られる。これは証明されました。

毎月の赤字。黒字になるのは年に1.2回
仕事が無かった時の恐怖感と毎月赤字の絶望感。
同じ立場の方は多数、脱落していきまいた。
ただ、私は会社員として生きる道はない。

単月で見るから苦しい。ならば、物事は5年スパンで見ていこう。
そのために、自己実現の3か条を決めました。
「諦めない・腐らない・己を信じ切る」
リーマンショックもなんとか乗り越え、この3か条も証明されました。

30代半ばになり、仕事に対する誇りや喜びは得られたものの
今後について考えると、不安がでてきました。

今、30代の私が人の3倍働いていると勝手に満足しているが
10年後、20年後、今のペースで働くことができるのか?
人並のペースになったとき、需要はあるのか?
所詮、もぐりの個人事業では責任はあるが権限がない。
お客さんに対してサービスを増やすために人を雇うことも不可能。
そもそも、満足しているのは私だけで
ひと様にお願いし、喜んでもらえるような働き方ではない。

ちょうど、ある事情で個人事業も撤退することとなりました。まあクビです。
しかし、会社員にも戻れない。

貿易や販売にも憧れ、行動してみたものの惨敗。
最後は1円で販売したものの、まったく売れず在庫の山。
結局、社会にとって1円の価値もないものだったことが証明された。

私には仕入れ販売のセンスはゼロなことも証明された。

私は社会にとって不必要なことも証明された。

この時、生きる選択肢はなくなり道は一つしかなくなっていました。

ならば、社会にとって必要な存在になるために、何ができるのだろうか?

運送に関して誰にも負けない気力だけはある。

社会に喜んでもらえるような運送会社を創ろう。

30代半ばでやっと自分の生きる道がみつかりました。

当時、運の良いことに私は独身となっていたので
全ての責任は私が取れることに大いに喜びを感じ
最悪は、お世話になった人には頭を下げ
腹を切る覚悟で事業に挑む決心をしました。

根拠なき自信だけはありました。

「法人設立」
弊社は2011年4月26日に設立し
同年、たしか9月に運送許可を頂き事業開始となりました。

お客様のあてはなし、トラックはない、お金もない。

まずは、楽天で5000円のスーツを注文。
これは、サイズ指定のみで、色は届いてからのお楽しみ的な商品で
紫色とかが届いたらどうしよう。などと考えていましたが
無事まともな色のスーツが届きました。
楽天さんありがとうございます。
慣れないスーツ姿で手作りの名刺を持ち緊張しながら銀行周りを開始。

誰も相手にしてくれません。
面白がって話だけ聞き、名刺を返される有様。
酷い銀行では登記の方法に問題があるので
この法人は潰して新たな法人を設立してからなら話を聞くとも言われました。
どこの銀行かはちゃんと覚えています。

一行だけ、新人の担当者が、法人は無理ですが個人でならとフリーローンで
200万円を融通してくれました。
神〇信〇さんありがとうございます。

中古車屋さんには当初、5台購入すると豪語し、1台あたり200万円(税込み)まで
値引き交渉していたものの
実は1台分しかお金がないことを伝えると
中古車屋さんも焦って、5台とも別のお客さんに売却すると言い出しました。
当然ですね。信用はマイナスとなりましたが
何とか、1台だけのキープをお願いして
決済日には銀行で現金を受け取り、その足で中古車屋さんへ走り
1台のトラックを購入することができました。

購入したトラックでそのまま知り合いの修理屋さんへ入り
快く信用取引を認めてくれ、整備をお願いできました。
本当に助かりました。

数日後、整備が完了したとの連絡があり、すぐに修理屋さんに行きました。
その場で営業ナンバーを取り付けが終わり
その緑ナンバーの雄姿にとても感動しました。

しかし、現実は最後の2万円を握りしめ、近くの給油所で給油。
800リットルの燃料タンクには2万円分の燃料では燃料計も少ししか上がりません。

トラックは手に入ったものの、燃料代がない運送会社でこの先どうするか。
途方にもくれましたが、
そんなことよりも自社のトラックが来たことが
本当に嬉しくて当日の晩はそのトラックで寝ることとしました。

翌日、許可申請中に相談相手になってもらっていた先輩方に
全ての許可が通り、堂々と商売ができることの報告を入れにいくと
お客さんがいないこと、燃料が入れられないことを哀れに感じたのか
弊社では初仕事の依頼をしてくれました。

当時、和歌山県で台風災害があり、
兵庫県から土嚢袋を運ぶという依頼でした。
土嚢袋はバラ積みで載せられるだけという案件でしたが
会社として正式に依頼されたということ、しかも被災地の手助けになれることが
誇りにも思えて土嚢袋を一つでも多く運ぼうと汗をかくことも気にならなかった
ことを覚えています。
信頼され、仕事を頂ける働けることの素晴らしさを実感しました。

さて、和歌山から帰ってきたものの、相変わらず
お客様はいない。燃料はほぼ空の状態。お金はない。
で途方に暮れていると
知り合いのツテで仕事の依頼がきました。

しかも、元受けの運送会社さんが所有している地下タンクで燃料を入れることができ
運賃と相殺してくれるというお話です。
運の良い会社です。
ここから本格稼働となりました。

話は少し先に進めます。

事業開始から約半年後、元同僚が入社してくれることが決まります。
ただし、トラックは1台。
トラックの購入が先か、人財の確保が先か
悩みましたが、人財がなによりも大事なこと、どうにかなるだろうと
1台のトラックを2マン運行で稼働させることとしました。

しばらくして、2台目のトラックも無理やりですがリースが通り
2台体制となります。

このころは、当初のお客様とは別のお客様との取引となっていました。

世間では気に入らない下請けに対しての支払いが止めているなどの
悪いウワサをされていたお客さんでしたが
始まったからには急に止めることができない。

特に、2台体制になり2台ともお世話になっていたので
支払いを止められた時点で会社は即死となります。
このお客さんの支払いサイトは60日。
少しずつ、こっそりと、別のお客様に移行していた段階でした。
しかも、弊社では初の2台分の入金日。
この支払いがあれば軌道に乗るかもしれないという日。

お客さんは倒産しました。

現地に駆け付けるとまるでテレビドラマの世界。
閉鎖された事務所には張り紙があり、代表者は当然行方不明。
債権者が多数駆け付け、当事者の担当者さんは平謝り。
倉庫もあったので、メーカーさんは裁判所に差し押さえられる前にと
全ての荷物を大量のトラックで引き出しています。
この作業は夜中まで続きました。

数日間は生きていけるが、次の月末の支払いはできない。

たった一人の社員さん、下請け業者さんへの支払いは
絶対に、ジャンプしないことが信用に繋がり、誇りでもあった会社。

先輩経営者さんからは会社とは、そんな時期もある。と、教えられてはきたが

代表者として全責任者として
信頼してくれている社員さん、信頼してくれている業者さんに対して
絶対にジャンプのお願いはできない。

先輩経営者さんの会社へ借入の相談にいくも現状を伝えるだけで
借り入れの相談は喉元までは出るものの声として出せない。

人様に迷惑をかけるくらいなら腹を切って詫びる。
しかし、腹を切ったところで誰の腹の足しにもならない。

お世話になった方に頭を下げることができない代表者。
全責任を私が取ると始めた事業で、誰にも頼ることのできない代表者。
ただのきれいごと。理想論だけの無責任者ではないのか。
こんなものは代表者失格なのではないのか。
自分自身と葛藤する。

誰にも迷惑は掛けられない。頼ることができない。
銀行さんにも迷惑は掛けられない。

最後に思いついたのは政府系金融機関。
これまで何度も断られてきたが、最後は国に甘えようと。

これでダメなら諦めよう。

翌日、政府系金融機関で借入申し込みをするもあっさりと断られる。

終わった。金融機関の前で呆然と立ち尽くす。
支払い期日は2日後。

ここで、社会に対しての逆恨みが出てくる。
どうせ腹を切るなら巻き添えを探そう。
今まで、この開業に関して妨害してきた人か。
この2日間で何人巻き込めるか。

しかし、私の子供たちはどうなる?
世間に後ろ指を指されながら生きていくことは許されない。
そもそも、堂々と胸を張って仕事がしたい。
社会の役に立ち喜ばれたい想いから始めた仕事が
どうしてこうなった?

あの世とはどんな世界なのか?
たぶん、何もない無の世界なのだろう。

この現世とはまったく違う世界だろうな。

今、現世とあの世との間にいるんだろうな。

真夏の正午ころ、空は快晴。

普段なら、着慣れないワイシャツに滴る汗は心地の良いものではないはずが、

一瞬と思われるが
熱いそよ風がものすごく心地よく感じ
滴る汗に感謝し
足元は歩道の花壇の片隅で生きている雑草が
信じられないくらい美しく、いとおしく感じた。
とても素直に感じた。

こんな感覚で生きられたら素晴らしい人生だったな。
いや、こんな感覚を一瞬でも味わえたことはとても幸せな人生だったな。

ちょっと待て。
残り2日間しかないではなく、2日間もあるじゃないか。
残り約48時間もあって、
ここで諦めることは
自分自身が過ごした、人に世話になりっぱなしの30数年間という時間
子供たちの未来の時間を冒涜することになる。

残りの48時間、精一杯生きよう。
最後の最後まで全力で走り切ろう。
こんなことで1秒たりとも無駄にはできない。

この後、どうやって乗り切ったのかは
正確には記憶にありません。

後から分かったことですが
私が借り入れを申し込みにいきながら
借り入れのお願いが喉元まで出つつ、声に出せなかった先輩経営者さんとの話で
当時は先輩経営者さんもお金の工面で苦労していた時期であり
私の苦しみも痛いほど分かったうえで
先輩経営者さん自信も「トゴ」の借り入れ先があることを私にどうしても
伝えることができなかったと。

今では笑い話ですが
お互い、当時の選択に間違いはありませんでした。

 

ロジカ株式会社は皆さまのおかげで10年という時間を超えることができました。
今後も、苦境はやってくるでしょう。

どんな苦境でも乗り越える自信はあります。
根拠はないですが自信だけはまだまだあります。

ロジカ株式会社の目標

経世済民の一助となる企業。

全ての関係者様、未来の関係者様
今後ともロジカ株式会社を宜しくお願い致します。

2021年5月吉日
ロジカ株式会社
代表取締役 中村哲也

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